●むこう向きのおっとせい その53
ヒゲ先生が亡くなって2週間。
まだヒゲ先生がいなくなったことがピンとこない。
いま、天文教室にはヒゲ先生の写真と遺骨が置かれている。
教室に入るとヒゲ先生はいつもの笑顔で私を迎えてくれる。
しかし写真の下には小さな骨になったヒゲ先生がいる。
やはりここにはいないのだと思い知らされる。
25年ほど前、とてつもなく落ち込んでいた私を見て、
ヒゲ先生が一緒にご飯を食べようと声をかけてくれた事がある。
ヒゲ先生がそんな事をするというのはまずないことで、私の様子がよほどおかしかったのだろう。
部屋に入るとコンロに鍋がセットされていて、こんにゃくがお皿にたっぷりと置かれていた。
他には、何もない。ただこんにゃくがあるだけ。
余り話さない私を相手に、ヒゲ先生はたわいもない事を話し続ける。
ビールを飲み、お酒を飲み、そしてひたすらこんにゃくをゆで、味噌をつけて食う。
「こんにゃくだけではさすがに寂しいな。」とヒゲ先生が苦笑いしながら言った。
その時、ヒゲ先生の私を思いやる気持ちが痛いほど伝わって来た。
別れ際、ヒゲ先生は紙に筆で「行雲流水」と書いて、笑顔で私に手渡してくれた。
「こんにゃく田楽」と「行雲流水」
再び前を向いて歩き出す事が出来た。
死者を死せりと思う無かれ
生者のあらん限り
死者は生きん 死者は生きん
ゴッホ
生者のあらん限り
死者は生きん 死者は生きん
ゴッホ
ヒゲ先生は目の前にはいなくなったけど、
もしかしたら今まで以上に身近にいるのかもしれない。
ではまた。
ワクワクの土曜日担当、池畑ことあっくんです☆
本日も僕のヒトリゴトにおつきあいください♪
「なんだ、その髪の毛の色は!!!」
僕が高校生の時代、学園におられた方のほとんどが知っているエピソード。
高校の帰り道に、ふと思い立って本部校に顔を出したときのことでした。
当時働いておられた事務の先生と職員室でお話をしていたときに、事件は起きました。
普段は忙しくあちこちを飛び回っておられて、あまり顔を出されることはないと聞いていたので寝耳に水状態です。
そう、ヒゲ先生が来られたのです。
髪の毛を染めることをとても嫌っておられた先生は僕の頭を見るなり大激怒。
当時の僕は、自由な校風の高校に入学できたことをイイことに輝くまでの金髪。
当然烈火のごとく怒られ、僕はすごすごと教室をあとにしました。
その後、事務の先生から心配されて連絡がくるほどの怒られっぷりでした。
これが僕のヒゲ先生に関する一番の思い出・・・
では、ないですよ!
多くの方にはそう思われているかもしれませんが(笑
実はもっと時代を遡って、僕が小学生の時。
もちろん金髪ではありません。
実験学校で小豆島へ行っていたときに事件は起こりました。
夜の実験が終わった後、急激な腹痛に襲われたのです。
あまりの痛さと、自宅ではないという不安から泣き出してしまうほど。
そんな僕を見かねた友人がヒゲ先生を呼んできてくれたのです。
先生は僕を鬚髯庵(ヒゲ先生の部屋)に連れて行き、薬を飲ませ、ベッドに寝かせてくれました。
痛くて痛くてしかたなかったはずなのに、ヒゲ先生に守られているという安心感からか知らぬ間に僕は眠りについていました。
次に目が覚めたときにはすっかり痛みは消え、先生に送られて僕は自らの部屋に戻りました。
子供ながらに大きな愛情を感じた夜でした。
これが僕のヒゲ先生との一番の思い出。
きっと同じ様な体験をされた方も多いでしょうね。
さて、今日でヒゲ先生が旅立たれて2週間。
もう向こうの世界での宴会も一段落したころでしょうか。
全てを受け入れて 次へと進む言葉 さようなら
(KOKIA say goodbye & good day)
本日も僕のヒトリゴトにおつきあいください♪
「なんだ、その髪の毛の色は!!!」
僕が高校生の時代、学園におられた方のほとんどが知っているエピソード。
高校の帰り道に、ふと思い立って本部校に顔を出したときのことでした。
当時働いておられた事務の先生と職員室でお話をしていたときに、事件は起きました。
普段は忙しくあちこちを飛び回っておられて、あまり顔を出されることはないと聞いていたので寝耳に水状態です。
そう、ヒゲ先生が来られたのです。
髪の毛を染めることをとても嫌っておられた先生は僕の頭を見るなり大激怒。
当時の僕は、自由な校風の高校に入学できたことをイイことに輝くまでの金髪。
当然烈火のごとく怒られ、僕はすごすごと教室をあとにしました。
その後、事務の先生から心配されて連絡がくるほどの怒られっぷりでした。
これが僕のヒゲ先生に関する一番の思い出・・・
では、ないですよ!
多くの方にはそう思われているかもしれませんが(笑
実はもっと時代を遡って、僕が小学生の時。
もちろん金髪ではありません。
実験学校で小豆島へ行っていたときに事件は起こりました。
夜の実験が終わった後、急激な腹痛に襲われたのです。
あまりの痛さと、自宅ではないという不安から泣き出してしまうほど。
そんな僕を見かねた友人がヒゲ先生を呼んできてくれたのです。
先生は僕を鬚髯庵(ヒゲ先生の部屋)に連れて行き、薬を飲ませ、ベッドに寝かせてくれました。
痛くて痛くてしかたなかったはずなのに、ヒゲ先生に守られているという安心感からか知らぬ間に僕は眠りについていました。
次に目が覚めたときにはすっかり痛みは消え、先生に送られて僕は自らの部屋に戻りました。
子供ながらに大きな愛情を感じた夜でした。
これが僕のヒゲ先生との一番の思い出。
きっと同じ様な体験をされた方も多いでしょうね。
さて、今日でヒゲ先生が旅立たれて2週間。
もう向こうの世界での宴会も一段落したころでしょうか。
全てを受け入れて 次へと進む言葉 さようなら
(KOKIA say goodbye & good day)
こんにちは
私は 中3の高校入試のとき 中学校の判定では第一志望校が×(不可)だった。
中学の担任の先生は 「志望校を変えなさい」 の一点張り。
中学の担任の先生は 「志望校を変えなさい」 の一点張り。
五ツ木模擬テストでは 4月以降ぐんぐんと成績が上昇し 第一志望校には最終的には届いていた。
しかし 内申点が足りなかったために 中学校では×だった。
藤原学園でも ヒゲ先生の個人懇談があった。
「内申が足りないが 実力はある」と言ってくれた。
心に残っているのは 決して 頭ごなしに「無理だ」とか「止めた方がいい」とはヒゲ先生は言わなかった。
「こうすれば合格する」 「不合格の時には 私立に行くことになる」 という説明で
最終的に決めるのは私自身だった。
最終的に決めるのは私自身だった。
藤原学園の判定が○でない生徒は 藤原学園の授業中 何度も職員室に呼び出しがあった。
私も 授業中に 何度も 職員室に通った。
そんな時 うまく自分の気持ちが言い表せない。 黙ったまま・・・。
しかし ここまで 自分なりには 一生懸命に 本当にひたすら頑張って志望校に届くようにと 勉強に取り組んできた。
朝起きて 学校に行く前
学校の休憩時間
帰宅して藤原学園に行くまで
藤原学園から帰ってからも
毎晩 日付が変わっても まだ入試問題に取り組んでいた。
学校の休憩時間
帰宅して藤原学園に行くまで
藤原学園から帰ってからも
毎晩 日付が変わっても まだ入試問題に取り組んでいた。
自分を信じて 本当に毎日勉強した。
毎晩の睡眠時間が5時間未満で 全国高校入試問題(電話帳)も仕上げた。
毎晩の睡眠時間が5時間未満で 全国高校入試問題(電話帳)も仕上げた。
そして 願書を出す直前 ヒゲ先生との最後の懇談で やっと自分の気持ちを伝えることができた。
「・・・すべってもいいから ・・・受けたいです。」
その声は 確かに震えていた。
自分の気持ちを言葉にするときに 人は声が震えるものだと その時に知った。
自分の気持ちを言葉にするときに 人は声が震えるものだと その時に知った。
ヒゲ先生にまで もし「だめだ」と言われたらどうしようという緊張のため 感情は高ぶり 声が震えたのだろう。
ヒゲ先生は 「やってきなさい!」と言ってくれた。
その時 初めて 自分以外に信じてくれる人がいることを実感した。
私も 人を信じることができる人間になりたい。
受験が近づけば 人は不安になる。そして逃げ出したくなったり やけくそになったり あきらめたり・・・。
受験という大きな目標から 目をそらさずに 生徒(後輩)たちが挑めるように 私自身 しっかりと 歩んでいきたい。
では、また来週金曜日に・・・。
森山’s Honey Bucket 52
もう15年以上も前になると思う。
学園の職員会議の席上、ヒゲ先生が
「小生は『全日本JJT』を立ち上げることにした。
J…塾で、J…実験を、T…楽しむ会
で、JJTである。」
と話を始められた。
常日頃からヒゲ先生は「日本の理科教育の現状は惨憺たるものである。」とおっしゃていた。
特に公教育への失望を語られるのをよく耳にした。
特に公教育への失望を語られるのをよく耳にした。
多くの予算を投入され立派な備品を揃えているにも関わらず、事故があってはならないからとか、
手間を掛ける割に得られる効果が少ないからとか、
と言う理由で、揃えた備品を真に活用しようとしない。
そんな公教育の現状について、
手間を掛ける割に得られる効果が少ないからとか、
と言う理由で、揃えた備品を真に活用しようとしない。
そんな公教育の現状について、
理科教育の有様を憂い、現況を打破しようと、
信念を持って立ち向かう教育関係者が少ないことについて、
信念を持って立ち向かう教育関係者が少ないことについて、
子どもたちに最も近い位置に立つ現場教師の中に、
しっかり理科を勉強しているとは思えない人がたくさんいることについて、
しっかり理科を勉強しているとは思えない人がたくさんいることについて、
嘆いておられたのを記憶している。
「学校が駄目なら、塾が立ち上がるより他にない。」
「全国の心ある塾が、子どもたちのために理科実験をする。」
「そのためのノウハウはすべて公開し、塾の先生方が安全かつ有意義に実験できるようヒゲが指導する。」
「小生の構想では、当初は月に一度、小豆島「星くずの村」にてJJTを開催するつもりだ。
開催の度、小生が塾の先生方を生徒たちに見立てて実験授業をする。同時に「ここではこんな注意が必要
だ。」とか、「この場面ではこんな演出をすると子どもたちは大いに喜ぶ。」とか、できる限り丁寧に伝える。
だ。」とか、「この場面ではこんな演出をすると子どもたちは大いに喜ぶ。」とか、できる限り丁寧に伝える。
「実験の要諦は予備実験にある。」これもしっかりと指導したい。
3~4つの実験授業が終わったら、先生方とスキヤキをつつき、杯を酌み交わしながら、塾の使命や経営に
ついて、また互いの夢についておおいに語り合うのだ。
ついて、また互いの夢についておおいに語り合うのだ。
小豆島までの交通費のみ自弁。その他JJTへの参加費用は一切無料とし、ヒゲがすべて負担する。
JJTへの参加資格は唯一、『塾長自らが会に出席することのみ』。
決済権のある人が相当の覚悟をもって実行に移さない限り、子どもたちのための理科実験指導を
継続することなどできないからだ。」
決済権のある人が相当の覚悟をもって実行に移さない限り、子どもたちのための理科実験指導を
継続することなどできないからだ。」
ヒゲ先生のJJT構想は、先生の頭の中では既に完成をみていたようだ。
寝ても覚めても考え抜いて、「よしっ。」となったら即実行。
これが僕の知りうるヒゲ先生のいつも変わらぬ生き方だった。
これが僕の知りうるヒゲ先生のいつも変わらぬ生き方だった。
やがてJJTの存在は全国の心ある塾長に知られるようになった。
各地方から、生徒数何万という大規模塾の塾長や町の小さな塾の塾長らが毎回「星くずの村」にやってこら
れた。そしてその都度ヒゲ先生を囲んで、実験を楽しみ、日本の理科教育に果たす塾の役割を確認されてい
たようだ。
れた。そしてその都度ヒゲ先生を囲んで、実験を楽しみ、日本の理科教育に果たす塾の役割を確認されてい
たようだ。
ヒゲ先生は乞われて、北海道や沖縄石垣島へも実験をするため出向かれることもあった。
JJTの活動に共感されたある国立大学の教授が、実験講師として自ら名乗りを上げ応援授業をして
くださったこともあった。
くださったこともあった。
先の専任会議の頃、不安を抱いた僕はヒゲ先生にこんなことを尋ねてみた。
「ヒゲ先生、理科実験は藤原学園のいわば専売特許、学園の大きな特色です。
全国の塾がヒゲ先生に習って実験を始めるようになれば、わが学園の特色が特色でなくなり、
結果将来われわれがご飯を食べられなくなるのではないですか?僕はそれが心配です…」と。
全国の塾がヒゲ先生に習って実験を始めるようになれば、わが学園の特色が特色でなくなり、
結果将来われわれがご飯を食べられなくなるのではないですか?僕はそれが心配です…」と。
ヒゲ先生は豪快に笑いながら、
「君はけつの穴のこまいことを言うね。もっと日本全体のことを考えてみなさい。
いろいろな場所で多くの子どもたちが実験に歓声を上げ、ものごとをしっかり考えるようになるんだよ。
それを想像してみなさい。実に素晴らしいことだ。アッハッハ!」
いろいろな場所で多くの子どもたちが実験に歓声を上げ、ものごとをしっかり考えるようになるんだよ。
それを想像してみなさい。実に素晴らしいことだ。アッハッハ!」
とおっしゃった。
ヒゲ先生の蒔かれたJJTの種は確実に発芽した。
全国の塾で実験を楽しんでいる子たちの数は飛躍的に増えた。
「ヒゲ先生、やっぱり最近ご飯が食べ難くなってきましたよぉ…」
そんな泣き言が天国のヒゲ先生の耳に入るようなことにでもなれば、
「君は何を言っとるのかね!」
こんどは叱り飛ばされるに違いない。
高い志をもち、そのひとつひとつを現実のものとしてこられたヒゲ先生。
その航跡を掻き消してしまうことのないよう、頑張らねばならない。
その航跡を掻き消してしまうことのないよう、頑張らねばならない。