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2024/04/25 17:28 |
新しい家族
森山’s Honey Bucket 98
 
 母が夜中にふと目覚めたとき、
 
ベッドの周りに誰もいないのは寂しかろう…と
 
仔犬を1匹飼うことにした。
 
 
おじいちゃん(まさゆき)から「ま」の1文字
 
おばあちゃん(いくよ)から「い」の1文字
 
をとって家族会議で決まった名前は「まい」。
 
やんちゃな女の子だ。
 
 
美顔の犬が並ぶ中で、母が選んだのは「パグ」。
 
母が悩んだ末に導き出した結論に、もとより異議を唱えるつもりはなかったが、
 
「なんでパグを選んだん?」と尋ねてみると…
 
 
「この子やったら、私の方が鼻高い。優越感に浸れるやん!」
 
なんとも素敵な理由だった。
 
 
今はまだ、
 
夜中に騒ぐやら、ウンチいっぱいするやら、
 
母の安眠を妨害してばかり。
 
ほんとうによかったのかなあ…と悩むこともあるが、
 
可愛い家族の一員となっている。

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2011/09/29 23:50 | Comments(0) | TrackBack() | 森山's Honey Bucket
秋分
森山’s Honey Bucket 97
 
 
 ある人の随筆に、日本のこよみにはアメリカなど西洋のそれに比べ、
 
季節にまつわる記述が圧倒的に多いとあった。
 
 なるほど、節分・立春・春分・八十八夜・立夏・入梅・半夏生・土用・立秋・二百十日・・・
 
そして秋分。
 
 2月から9月までのカレンダーにも四季の節目となる日の記載が数多くある。
 
 
 アメリカでは独立記念日だとか、リンカーンが大統領に就任した日であるとかいった具合に、

人に関わる記述が多いそうだ。
 
 あまり季節にとんじゃくがない例として、アメリカの教科書には、
 
冬を感じさせる文章の挿絵にサーフィンを楽しむ人が載せられていたり、
 
夏の場面に冬の写真が掲載されたり・・・といったことが少なくないと筆者は書いていた。
 
 
 服装に配される図柄を見ても、
 
梅雨時期にはアヤメはショウブといった具合で、その季節らしいものが好まれる我が国に対し、
 
アメリカでは朝用(morning)と夜用(evening)というように、1日の中でのメリハリが意識されるのだとか・・・
 
 もちろんどちらが良い悪いの問題ではないのだが。
 
 
 
 農耕が生活の基盤だったからか、
 
四季がもたらす景観や生活様式の変化に、いつも心を向け続けてきたからか、

この国の人々は四季の移ろいを楽しみにし、大切にする国民性になったようだ。

 自分もまさにその一人だ。
 
 
 秋風が涼しい朝、素敵な空に出会った。
 
 我が家の朝顔(もうそろそろ終わりだが…)の枯葉の上に、ショウリョウバッタの夫婦が仲良く並んでいた。
 
 
 
 まもなく、中間テスト対策・個人懇談会・とうふつくり・先輩を囲む会・・・
 
いよいよ藤原学園の秋の歳時が始まる。ようし、がんばるぞ!


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2011/09/22 23:00 | Comments(0) | TrackBack() | 森山's Honey Bucket
ついにギブアップ
森山’s Honey Bucket 96 
 
 
ついに老眼鏡を購入してしまった。
 
(ヒゲ先生はご自身の使っておられたそれのことを老眼鏡とは呼ばず、
ずっと拡大鏡と言い続けておられたが…)
 
 
ここ1~2年、めっきり電話帳(全国高校入試問題正解)の問題が読めなくなった。
 
近視用の眼鏡を掛けていたせいもあるので、
 
もっぱら眼鏡を頭の上にずらして対応してきた。
 
 
すなわち、遠いところは眼鏡で見、近くは眼鏡を外して裸眼で見る。
 
そんな不自由なことをしてきた。
 
 
しかし、アンチエイジング?
 
心の中で、老眼鏡(遠近両用)を作ることを頑なに拒んできた。
 
 
 
でももうダメだ…
 
ついに40~50cm先が見えなくなった。
 
近視用の眼鏡を掛ければ近すぎてピントがあわず、裸眼では遠すぎてやはりだめ。
 
 
コンピュータ操作が特にキツイ。
 
近眼用の眼鏡を掛けたまま画面の文字が読める位置までバックすると、
腕の長さが足らず、指がキーボードに届かない。
 
裸眼だと、サーキットレーサーがハンドルを操作するような格好で、
まるで画面に額を付けるような座り方になる。
 
 
ということで、ついに観念しました。ギブアップです。
 
 
潔く?老眼鏡とともに人生の後半を歩んでまいります。
 

2011/09/15 23:55 | Comments(0) | TrackBack() | 森山's Honey Bucket
峠の景色
森山’s Honey Bucket 95
 
 
 一年に一度、夏の終わりから秋口にかけて、
 
何だか無性に眺めたくなる風景がある。
 
生駒山を越える暗峠辺りに広がる田んぼの景色だ。
 
 膨らんだ稲穂が、峠を吹き抜ける涼しい風に揺られる様がいい。
 
 
 「よし行ってみよう。」
 
たいていは前夜に思い立ち、あくる朝から生駒山を目指す。
 
 ふだんから体を動かしている人にとってはたやすい山登りなのだろう…
 
しかし、僕のような身重(?)の体で、大阪側から生駒山(暗峠)をめざすのは
 
それなりにしんどい。
 
 去年まではもう少し楽に登れたはずなのに、今年は途中休憩の回数が多い。
 
「う~ん、これではいかん!しっかりせい森山君!」
 
 叱咤激励の独り言を発しながら、汗をぬぐう。

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峠辺りの田は今年も涼しかった。
 
 畔に腰をおろした。
 
 素敵な時間なのに、静かにゆっくり流れている気がした。
 
 
いつもは、なだらかな坂道を南生駒駅まで下るのだが、
 
今回は鳴川から瓢箪山駅に下る道を選んでみることにした。
 
 途中、わが町河内を眼下に楽しむことがもできた。

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運動不足による体力低下を感じる山行きだったけれど、
 
自分なりの達成感を得、夏休みを終えることができた。

2011/09/08 10:11 | Comments(0) | TrackBack() | 森山's Honey Bucket
たこ焼き
森山’s Honey Bucket 94
 
 
 今の僕の体型からは想像すらできない話だが、
 
 
小・中・高時代の僕は痩せギスだった。
 
 もとよりチビだったので、やせっぽちの超チビ少年だった。
 
 
 痩せギスの理由(これまた今の自分でも不思議だが)は、
 
「食すること」に一切関心がなく、むしろ「食」の時間が苦痛だったことだ。
 
 
 母の作るカレーライスとオムライス…
 
そしてネギの入っていないきつねうどん、と、もう一つ…
 
が数少ない好物だった。
 
お寿司も特に喜ばず、お肉に至っては心底毛嫌いしていた。
 
 
 そのもう一つの好物こそが、「たこ焼き」であった。(もちろん今も大好物)
 
 
 昨夜の夕飯が家内自慢の「たこ焼き」だったので、ふと昔のことを思い出した。
 
 
 
 
 銭湯「梅之湯」の並び、「本六地蔵様」の隣に、
 
僕が毎日のように通ったたこ焼き屋さんがあった。
 
姉妹らしいおばあさん二人が店を切り盛りしていた。
 
 
ぼくはどちらかと言えば、表面だけでなく中身にも火が通って全体が
 
カリカリになった「売れ残り」的なたこ焼きが好みだった。
 
まあよく繁盛している店だったので、
 
お目当ての「カリカリ」が当たることはめったになかったのだが…
 
 
 
ある日、珍しくぼく以外のお客さんがいなかった。
 
おばあさんは、普通のたこ焼きをのせた木の舟皿の横に
 
偶然にも僕の大好物のカリカリたこ焼きを
 
2つだったか3つだったかおまけでつけてくれた。
 
(毎日のように店に通ってくるぼくを、健気に思ってくれたのだろうか?)
 
そしておばあさんは、人差し指を1本、結んだくちびるの前に出して合図をした。
 
 
ぼくにはその合図に、「内緒だよ。」という意味が込められていることをよく理解できず、
 
ただ嬉しくて満面の笑みでお礼を言った…(そんな記憶がある。)
 
 
それからも何度かおばあさんはくちびるに人差し指をあてながら、
 
2つまたは3つとおまけのたこ焼きをプレゼントしてくれた。
 
 
ぼくはますますそのたこ焼き屋さんが、そしておばあさんたちが、好きになっていった。
 
 
 
その日も、湯気の上がる舟皿を手に、店の奥の座席に向かうと、
 
そこには同級生の子がすでにたこ焼きを頬張っていた。
 
別の壁際に大人の人が2人程いた気がする。
 
 
ぼくは居合わせた友だちに、
 
ここのたこ焼き屋さんがいかに素敵で、
 
おばあさんたちが優しい人であるかを伝えたい一心で、
 
「このお店の人はとても親切なんだ。
 
いつもおまけのたこ焼きをプレゼントしてくれるんだ。」
 
と話しかけた。
 
おばあさんたちへの感謝を示したい気持ちもあったので、
 
友だちだけに聞こえるのではなく、
 
おばあさんたちの耳にも届くほどの声を出していたのだろう…
 
 
 
ぼくがそんなことを言い終わるか否かのタイミングで
 
おばあさんの一人がぼくのそばに駆け寄ってきた。
 
 
そして、
 
「そんなことを言うもんではない!これから二度とおまけなんかしないからね!!」
 
と、厳しく叱られた。
 
 
その日のたこ焼きがどんな味だったか、全く覚えていない…
 
 
 
受けた親切に対して、自分なりに精一杯感謝を示したはずのぼくの行動が
 
おばあさんたちをあせらせ、おこらせてしまうことになった理由
 
(あの場面ではそうせざるを得なかった大人の事情)を、
 
ぼくは、相当年が過ぎてやっと解釈できるようになった。
 
 
 
でも当時のぼくは、その日を境にその店には行けなくなってしまった。
 
店の前を横切ることもできなくなった。
 
 
深く傷ついたのだ。
 
 
 
 
 
ぼくは長じて子どもたちを相手にする職業を選択した。
 
今も日々、子どもたちの前に立ち、横に座り、
 
話もし、ときには叱りつけもする。
 
 
 
 
思えば、ずいぶん怖ろしい仕事だ。
 
自分の立場からは正しいと信じて発する言葉や行動が、
 
知らず知らずに子どもたちを深く傷つけることになってはいまいか…
 
 
ときおり卒業生から
 
「あの時はひどく叱られた。」とか
 
「あんなに叱られた記憶は他にない。」とか
 
「先生の勉棒が一番きつかった。」とか
 
暴露され、
 
「そうやったかなあ?ほんまか?それは悪かった悪かった…」などと
 
赤面することがある。
 
 
しかし、こういった素敵なチャンスが与えられることはむしろ稀なことだ。
 
 
 
それぞれの子たちの心の機微やその真意を、どの瞬間にも感じ取り、理解する。
 
それは絶望的に不可能だ。
 
 
だとすると、子どもの心を深く傷つけずに済む方法とは?
 
 
 
たくさんの人のたくさんの価値観に触れ、共感できる自分(大人)であること。
 
 
自分の心を穏やかに保ち、キツキツ・カツカツで子どもに接しないこと。
 
 
だます子どもを悪人に仕立てる前に、
 
「あっ、またやられた。」と自分で自分を笑ってしまう…という心の持ち主が理想だ。
 
 
 
そして、やっぱり原点は
 
「子ども大好き」  
 
それだけか!
 

2011/09/01 23:50 | Comments(0) | TrackBack() | 森山's Honey Bucket

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