森山’s Honey Bucket 56
CY先生のブログを拝見しながら、ふとなつかしく思い出したことがある。
息子が幼稚園に通い始めるまでは、一緒に過ごす時間がたくさんあった。
午後2時からの出勤だったおかげで、乳母車や自転車に息子を乗せ、あるいは息子が足こぎする三輪車やデラックスな外車(四輪駆動車)の横に付き添い、ときには僕運転のマイカー・カローラに乗って、二人でいろいろなところに出かけた。
息子は小さい小さいときから鉄道が好きだった。
鳥飼の新幹線基地・東花園の近鉄電車の車庫・長瀬駅付近の踏み切り、
いずれも嬉々として目を輝かせた。
そんな息子が幼稚園に通い始め、次いで小学校に上がるようになると、
全くと言って良いほど二人で過ごす時間がなくなった。
当時僕が帰宅するのは今よりずっとずっと遅い時刻。
息子が僕に「行ってきます。」を告げに来る時間帯は、ようやく僕が寝床から這い出す時間帯でもあった。
息子が戻る時刻には僕は既に家にはおらず、
僕が帰宅する時刻には息子は深い眠りのさ中だった。
日曜・祝日も休めないことの連続。
子どもとすれ違ってばかりの生活に悩んだ僕に妙案が閃いた。
それは息子と毎日「交換日記」をすることだった。
小学生になったばかりの息子との交換日記。ノートは確か8ます。
一文字一文字丁寧に正しく書くことに気をつけていた。
内容は、息子に小学校での生活ぶりを尋ねるもの・季節の草花や虫についてのこと・元気に育ってほしいと願う気持ち・クイズ問題・お父さんの仕事について…などなど、
いろいろなメッセージを「息子に届け」と日記に託した。
会えない分、話せない分、毎日2ページも3ページもメッセージを綴っていた。
母親の大いなる応援もあって、息子も一所懸命にそのキャッチボールに参加してくれた。
夜中に日記帳を見るのが楽しみだった。
ノートも8ますから10ます16ますとます目が増え、
日記帳の冊数も随分たくさんになっていった。
息子が小3に上がる年の春、ヒゲ先生から上本町校の鍵を授けられた。
「ここは君がやりたまえ。」と。
そして息子は上本町校開校初年度の小3生として登校できることとなった。
週に2日の上本町校と2ヶ月に1度の実験学校では、
生徒と先生の間柄で、日中に顔を合わせることができ、会話できるようになった。
交換日記はたしか息子が4年生になるまでに終わってしまった。
今、日記帳は段ボール箱の中で重なって、押入れの奥に追いやられている。
しかし、当時の僕と息子の気持ちをいっぱい詰め込んだ日記帳は、
僕の老後の素敵な宝物になるはずである。
追記
現在、決して優秀でも器用でも無い彼だけれど…
健康でかつ性格の良いやさしい青年になってくれたことに、たくさんの感謝をしている。
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