森山’s Honey Bucket 75
父はたいへん器用な人だ。
父はたいへん器用な人だ。
楽譜が読めるわけではないのに、ショパンの「ノクターン」や「別れの曲」や「軍隊ポロネーズ」だって弾きこなしたし、口笛もハーモニカもどんな演奏家より上手に思えた。
僕が片江小学校に通っていた頃の新深江の家(父曰く「アパッチ砦」)は、父自身が基礎工事から床・壁、トタン屋根に至るまで、ほとんど自分でこしらえた。(そんな我家には犬3匹、猫4匹、文鳥2羽、赤や青の金魚が泳ぎ、たくさんの鳩のすみかにもなっていた。だから動物たちと親子3人のワイワイ砦だった。)
家だって建てるくらいだから、戸棚を作ったり水屋を作ったりするのはお手の物、風呂場も作った。今から考えると法律的にはまずかったろうけれど、家屋内の電気配線も事故なく仕上げた。
そんな父は、僕の何倍も子どものことが好きで、いわゆるよその子でも、何かと面倒を見、可愛がり、時には厳しく叱りつけもしていた。おこると恐いけれどやさしいおっちゃんとして、僕の友だちからも近所の子どもたちからも好かれていたと思う。
昭和6年生まれの父は、その時代の方々の多くがそうであったように、戦前戦後を貧しく逞しく生き抜き、20歳代以降をとにかくがむしゃら働いてきた。そしてやはり情に厚かった。
立ち上げた森山商会は母と共に額に汗し、僕が小学校に上がる頃には、それなりの軌道に乗ったようだった。従業員さんやアルバイト学生さんも来てくれ、一人っ子の僕には工場が賑やかになったことが嬉しかった。
ところが十数年の汗と努力の結晶とも言える父母の財産が、やくざまがいの詐欺行為によって瞬く間に消えうせてしまった。
詐欺行為を働いたのは、なんと父母の結婚の仲人をした人物だった。
自分の全財産を、騙されるはずがなかった人物に、ねこそぎ持って行かれた父母の無念はいかばかりだったろう…。中学生になっていた僕もその詐欺師を心の底から憎み、最低の人間だと軽蔑した。
そんな不運があって、ある日からうちの住まいは、得意先の社長さんが自分の工場の片隅に提供してくれた小さな空間だけになった。同時に父の仕事はその工場の屋上に雨露をなんとかしのげる場所を得て再出発となった。
家財道具の箪笥2竿と僕の勉強机が狭い廊下に並べられた。
中3だったけれど寝る部屋は家族に一つだけだったから、必然的に親子3人は並んで寝ていた。
高校受験を控えた正月、藤原学園の冬合宿があった。
1月2日の早朝、勉強用具がギッシリつまった鞄をもって、「行ってきます。頑張ってくるわ。」と出発した。冬合宿では同室の仲間と励ましあって、徹夜学習も含め精一杯がんばった。
合宿で得た充実感を胸に、「ただいま!」と家に帰った僕に、父が「隆伸、上の工場に上がってこい。」と声をかけた。「うん。」言われるがままに足を階段に向けた。森山商会のにわか工場(父曰く「鳩小屋」)へ続く階段だ。 建物の外に張り出した雨ざらしの金属製の階段は靴音がよく響いた。
一瞬目を疑った。
そこには合宿出発前にはなかった、ベニヤ板で囲まれた部屋が立っていた。
夢中で扉を開けると、僕の勉強机、手作りの本棚、どこに預けていたのか懐かしいベッド、南側に開けた窓、そしてステレオセットがあった。紛れもない「僕の部屋」がそこには作られていた。
僕が合宿に参加 していた6日間に、お父ちゃんとお母ちゃんが作り上げてくれたのだ。
嬉しかった。涙が出るほどに…。
ただひとつの説明も付け加えられないのに、長い間心に残り続ける出来事がある。
僕は15歳の冬にそんな一つを得た。頑張ろう…そう誓えた。
この父と この母と 後どれ程の年月を一緒に過ごしていけるのかは分からない。
与えてもらったことの何百分の一すらも恩返しは叶っていない。
いつか僕があの世に行ったとき、またこの父母に迎えてもらい、
この世での孝行の不足を補えるチャンスがあればよいのに…と願う。
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