夏合宿。藤原学園は「3㎞の遠泳」を実施していた。残念ながら過去形である。
瀬戸内海に人喰いサメが現れ複数の漁師が犠牲になる痛ましい出来事があった。専門家は「黒潮の流れの一部が瀬戸内海に入り込んだことが原因で、今後もサメの出現が続く可能性がある。」と説明した。大切な子どもたちの「命」には代えられない。遠泳は中止を余儀なくされた。
3㎞とは「星くずの村」眼下の古江浜から内海湾の彼方に浮かぶ弁天島までの往復である。しかし多くの場合潮流の影響で最短コースを泳ぐことはできず、誰もが3㎞よりもっと長い距離を泳ぐ結果になった。
遠泳隊の先頭は司令塔「伝馬船」。潮風にはためく「頑張れ藤原学園遠泳隊」の幟と、力強く打ち鳴らされる太鼓のドーンドーンという響きが、挑戦者たちに進むべき方向を示す。救命具を積んだ先輩の漕ぐボートが多数、隊列の左右で伴走する。
泳がない同期生たちは、乗り組んだ漁船から声を限りの声援を送り続ける。
泳ぐ者にとっても、応援する者にとっても、「遠泳」はまさしくドラマだった。
その年…
B君は泳力測定「評価C」。この泳ぎ方では完泳はとてもありえないと思える様子だ。
しかし彼は「遠泳をするために合宿に来たのだからどうしても挑戦したい。させて欲しい。」と村長に直談判した。
(※遠泳前日に必ず実施される泳力測定で、A・A’・Bと判定された者は参加を認められる。測定途中に棄権した者は×。C判定の者は、測定コースこそ泳ぎ切ってはいるが、「本番の厳しさ」を何度も説明し参加を見合わせるよう持ちかけていた。)
同級生のU君は泳力測定途中棄権。
彼は「どうしても伝馬船上で太鼓を叩きたい。」と申し出た。
遠泳当日…
先頭の泳者が片道を泳ぎ終え弁天島に上陸する頃、B君はまだ行程の半分にすら到達できていなかった。しかし彼は何とか片道を泳ぎ切った。
「よく頑張った。もう十分合格だ!」と言うわれわれの労いに対し、彼は首をしっかり横に振った。「帰りも行く。」
帰路、先頭と最後尾の間隔は往路より遥かに長くなった。B君の泳ぎは目に見える前進を止めたようだ。しかし彼は決してギブアップしなかった。先頭集団はもちろん、遠泳参加者の殆どの者が泳ぎを終え、浜で体を温めつつ待っていた。伝馬船も、そして先輩方のボートも一漕また一槽、最後尾のB君を激励するためにコースに戻ってきた。
浜からとボートからの大歓声の中、B君はとうとう完泳した。
本人も周りの者も大きな感動に包まれた。B君は待ち構えておられたヒゲ先生からゴシゴシひげの祝福を受けていた。
一夜明けた朝、M君から「先生、Uの手見た?」と問われた。
第4宿舎前にU君を見つけ、彼の両掌を見た。真っ赤になった両掌の上半分は完全に皮がめくれ無くなり、肉があらわだった。痛々しいという表現では足りない傷跡だった。
「U!」彼は太鼓のばちを握り続け、力強く力強く叩き続けてくれていたのだ。
「掌がこんなんになってるのに、なんで何も言えへんかったんや…。」
「僕が出来ることはこれくらいしかなかったから…」U君はつぶやいた。
教え子たちに大きな大きな仕事を見せてもらった。
もう26年もたったのに、あの感動は忘れることがない。
今回のお話大変感動しました。
僕も東京の地でB君、U君のような信念をもって生きていきたいと思います。
藤原学園で学んだ机の上では学べないことを勇気に変えながら、
時には斜め後ろのおっさんに助けられながら。