森山’s Honey Bucket 81
東北で被害に遭われた方々を支援するため、大勢のボランティアが身を粉にして活動されている。そんな報に触れるたび「我が国民」は「やさしさ」「思いやり」を忘れてはいない!と感銘を覚える。
が一方で、日常当たり前の生活の中に、ふと、
この社会は「他人を思いやること」を忘れたのではないか…と感じることがある。
最近、どこかの国を模した巨大ショッピングモールがあちこちに出現している。
先日も大阪駅に巨大なショッピング施設がオープンした。
「1日で50万人もが来店したそうだ。」とキャスターが明るい調子で報道していた。
「自分の稼いだお金で欲しい物の購入する。」
「品揃えが豊富で、選択の自由が広がる大型店に出掛ける。」
いずれも個人の自由な経済活動だ。
大きな資本があれば大量の買い付けを行い、仕入れ単価を下げることができる。
結果、同じ価値の商品を安く販売でき、消費者に歓迎される。
これも企業の自由な経済活動だ。
今の世の中のあちらこちらに、「大勢に支持される」=「価値がある」という等式がまかり通っている。
大勢の味方を獲得するために、「あなたたちを思いやる気持ちがあります」と、うまくアピールしている者が業績を伸ばし、したたかに生き抜いていると言い替えてもよい。
しかしこの勝者の方程式から漏れたところに、目を凝らさないと見えないものがある。
それは、「力のあるもの」によって無残に潰され、押し流され、藻屑とされた「小さなものたち」のことだ。
以前の日本社会は「小さき存在」に対してもっと寛容で、「思いやり」が溢れていた。
社会を構成する一人ひとりもまた同様であった。
また昔の「力あるもの」は、自分(自分たち)の起こす「うねり」が、弱小の者たちに及ぼす影響について、もっと「仁」や「礼」を持って臨んでいた気がする…
巨大なブルドーザーを以て容赦なく「か弱き者」をなぎ倒す「現代流の力」を、
僕は好きにはなれない。
善意を身にまとった大勢の一員となることで、いつの間にか、
「小さい者たち」に対する「思いやり」を持てなくなった我々自身も、
好きとは言えない。
今の社会を牛耳る「利益至上型」の有様をいくらか脱却して、
「他人への思いやり」に満ち、
「足らないところを自然に分け合える」
そんな世の中に近づけることを願う。
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