今週のドキドキの日曜日担当は…
西野ことにっしんです☆
弟じゃありません。
最近弟が八戸ノ里校で働き始めて、呼び方がそうとうめんどくさいんで
弟のあだ名考えたって下さい。
55期生が卒業してから、もう1ヶ月以上経ちましたね。
そろそろ高校での生活にも慣れてきた頃かな???
みなさんクラブに入ったり、何か新しいことを始めたりしましたか???
もしまだ何もしていない、ヒマでヒマで仕方ないなんて人がいたら何か今しかできないことを始めましょう!!
僕も最近ある事を始めました。
新しい事にチャレンジするのは気持ちも切り替わっていいことですよ。
僕が何を始めたかは来年わかるでしょう!!
断念していなければ…
卒業生また顔出しにきてね♪
話は変わりまして、この間のGWにFFC(Fujihara Fishing Club)のメンバーとして僕も小豆島に行かせていただきました。
最高に楽しかったのですが、
釣れた魚はというとメバルやガシラなど
釣れると嬉しいし、たべても美味しい
しかし大物とはいいがたい魚でした。
80cmオーバーのシーバス(スズキ)を釣ってやろう!って意気込んでいったのでなおさらでした。
今回の敗因はシーバスが釣れる気がしなかったから
とりあえずボウズ逃れで小物を狙いに行ってしまったことですね。
いわゆる今流行りのイモったってゆうやつですね。笑
今回ばかりではなく、僕は大物と言えるような魚を釣ったことがありません。
FFC以外でも
3、4回バス釣りにも行きまったく釣れず。
太刀魚釣りにも行き、僕が調べて作ったしかけで慶くんとサップがでかい太刀魚を釣り、
僕は釣れず。
もはや釣れる気がしません。笑
僕に釣りは向いてない可能性があります。笑笑
しかしやめません。
満足できる魚を釣るまではやります。
やらなければ釣れないのですから。
これは勉強においてでも同じです。
自分はやればできると思ってる人はたくさんいると思います。
僕もそうです。
その自信を持つことはいいと思いますが、やらなければ意味がありません。
「やればできる」だけであって「やらなければできない」のですから。
ということで生徒の皆さん勉強ガンバって下さいね!
全力でサポートしますから!!
もうすぐ中間テスト前になる人が多いので遠慮せずバンバン質問してくださいね!!!
些細なことでも疑問があれば手をあげてみる勇気も大切ですよ。
最後に
若江の商店街の通りの前びっくりラーメンあったとこの横のたこ焼き屋のたこ焼き美味しいから行ってみて下さい!
店内で食べれるんで焼きたては最高です!!
塩マヨが好きです。
若江に住んでる人は絶対何回も前通ったことあるはずです。
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ワクワクの土曜日担当、池畑ことあっくんです☆
本日も僕のヒトリゴトにお付き合い下さい♪
気持ちの良い風の吹く、たいへん過ごしやすい時期になりましたね。
緑の映える生駒山を眺めていると、山登りをしても気持ちいいかもしれないな〜なんて思ったりもします。
どちらかと言えば山に行ってBBQの方が好きな僕ですが。
巷では登山が流行りになっているのか、「登山関連」の情報がちょくちょく入ってきます。
友人の何人かが登山にハマって、その話を聞いたり。
また別の友人からは一緒に山登りをしようとさそわれたり。
そういえば、去年の今頃だったと思いますが栗城史多さんの『一歩を超える勇気』という本にも出会いました。
栗城史多さんの公式HP
そんなこんなでこれも何かの縁、というわけで先日、
『岳-ガク-』
という映画を観てきました。
もちろんのこと映画中では山の魅力がたっぷりと描かれています。
特に好きなのは何度か出てくる山の中や山頂で淹れたてのコーヒーを飲むシーン。
「雄大な景色をバックにして飲む熱々のコーヒーは間違いなく美味しいだろうなぁ。」
なんて思っていると、それだけで山登りの動機になりそうでした。
ですが、それと同じくらい描かれているのが山の無慈悲なまでの恐ろしさ。
パックリと口を開けたクレバスや、豹変する天候、襲いかかる雪崩。
それらはときに、人の命さえも奪っていく。
スクリーン越しに観ているだけでも十分に恐ろしさが伝わってきました。
登った人の心に深い感動を与える山も、
大切な人を傷つけてしまう山も、
どちらかだけが山なのではなく、
全部ひっくるめて山なんだ。
そして、山を愛するということはその全部を愛するということ。
そんなことが伝わってくる良い映画でした。
これは山に限らず、他のモノや人でも同じ。
自分にとって100%都合の良いモノや人なんて存在しえないのだから。
それぞれが良いと思える部分と嫌だと思える部分をあわせ持っている。
たまたま良いところを見れば好きになり、嫌なとこをを見れば嫌いになる。
入り口は好き嫌いのどちらでも、たまたまそのときには見えていない部分が必ずある。
だから何度も何度も関わって、見えていなかった部分を見て、そして全部丸ごと受け入れる。
それが最良の関わり方なのかもしれない。
だから島崎三歩はこう言う。
「また、山においでよ。」
本日も僕のヒトリゴトにお付き合い下さい♪
気持ちの良い風の吹く、たいへん過ごしやすい時期になりましたね。
緑の映える生駒山を眺めていると、山登りをしても気持ちいいかもしれないな〜なんて思ったりもします。
どちらかと言えば山に行ってBBQの方が好きな僕ですが。
巷では登山が流行りになっているのか、「登山関連」の情報がちょくちょく入ってきます。
友人の何人かが登山にハマって、その話を聞いたり。
また別の友人からは一緒に山登りをしようとさそわれたり。
そういえば、去年の今頃だったと思いますが栗城史多さんの『一歩を超える勇気』という本にも出会いました。
栗城史多さんの公式HP
そんなこんなでこれも何かの縁、というわけで先日、
『岳-ガク-』
という映画を観てきました。
もちろんのこと映画中では山の魅力がたっぷりと描かれています。
特に好きなのは何度か出てくる山の中や山頂で淹れたてのコーヒーを飲むシーン。
「雄大な景色をバックにして飲む熱々のコーヒーは間違いなく美味しいだろうなぁ。」
なんて思っていると、それだけで山登りの動機になりそうでした。
ですが、それと同じくらい描かれているのが山の無慈悲なまでの恐ろしさ。
パックリと口を開けたクレバスや、豹変する天候、襲いかかる雪崩。
それらはときに、人の命さえも奪っていく。
スクリーン越しに観ているだけでも十分に恐ろしさが伝わってきました。
登った人の心に深い感動を与える山も、
大切な人を傷つけてしまう山も、
どちらかだけが山なのではなく、
全部ひっくるめて山なんだ。
そして、山を愛するということはその全部を愛するということ。
そんなことが伝わってくる良い映画でした。
これは山に限らず、他のモノや人でも同じ。
自分にとって100%都合の良いモノや人なんて存在しえないのだから。
それぞれが良いと思える部分と嫌だと思える部分をあわせ持っている。
たまたま良いところを見れば好きになり、嫌なとこをを見れば嫌いになる。
入り口は好き嫌いのどちらでも、たまたまそのときには見えていない部分が必ずある。
だから何度も何度も関わって、見えていなかった部分を見て、そして全部丸ごと受け入れる。
それが最良の関わり方なのかもしれない。
だから島崎三歩はこう言う。
「また、山においでよ。」
こんにちは
C Y ( コンパクト ヨコヤマ )
です。
今年の夏は特に節電に注目があつまる
原子力発電には様々な意見があるだろう
原子力発電にはコストがかからないように
元から計算してあったと考えても不思議ではない
ヒトの力の及ばないものを コントロールできると過信して始まったはずの
原子力の平和利用
ヒトの力の及ばないものを 利用するなんてことが そもそもの誤り
だから 数字を作って 大義名分を発表した
想像してみよう
世界のどこかにある未開の村では 電気が通っていなかった
ある日 先進国と言われる国から技術者が来て 電気を発電して
それぞれの家に 電灯がともった
村人たちは喜んだ
しかし それは永遠に止まることのない 技術革新の第一歩になった
これを進歩というだろうか 幸せとは何だろう
前に進むばかりが 前進なのだろうか
原子力発電には 以前よりも多くの反対があるだろう
ヒトの力以上のものを操ると 必ず惨事がおこる
自動車 オートバイ 電車 飛行機 ロケット・・・
しかし ヒトは立ち止まれない
では、また来週金曜日に・・・。
森山’s Honey Bucket 79
「母の日」のを前にしたある日のニュースから。
津波で塩害を被った園芸農家。
駄目だとあきらめていた畑に、たくさんのカーネーションが花をつけた。
泥を被ったカーネーションは正規の売り物にはならない。
しかし健気に花芽を膨らませたカーネーションの「生命力」に心打たれた農家の方は、
一株一株を丁寧に水洗いして、いくつもの小さな花束にした。
一株一株を丁寧に水洗いして、いくつもの小さな花束にした。
そしていつもの10分の1程の価格で庭先の台に並べてみた。。
それを知った避難所の人たちがたくさんやって来て、その花束は瞬く間になくなった。
色鮮やかなカーネーションを手に、笑顔をほころばせる人もいれば、
「亡くなった母が好きだった…」と涙を浮かべる人もいる。
ニュースに映し出される人たちの表情は様々だったけれど、
その花たちに向けられる眼差しは皆、とても慈しみ深いものに感じられた。
人は感謝の気持ちを「花」に託して伝えることがある。
一年のうちでも一際「花」が美しい季節を迎えた。
神様へ、
今、この国の大地に咲く花々を、
そちらに召されたそれぞれの方へ、
ゲンパツ
げんしりょくはつでんしょ
原子力発電所
本当に必要だったのだろうか?
使用済み燃料棒の廃棄方法が確立されていないのに、原子力発電所は稼働を始めてしまった。
責任者はだれと言うなら、当時の方々(当事者も傍観者も)と言う事になってしまうだろうか。
でも今は責任の所在よりも、今後どうするか?が大事ではないだろうか?
今後も学習して正しい判断をできるようにならなければならない。
参考HP よくわかる原子力 http://www.nuketext.org/index.html