森山’s Honey Bucket 44
9月1日「防災の日」は、大正時代に首都圏を襲った大地震「関東大震災」の惨事からの教訓を再認識する日として設定されたらしい。
が、僕にはもうひとつ別の教訓を残した「防災の日」でもある。
「隆ちゃん、ミジンコ※買いにいくで!」
真向かいに住む小ぼんちゃん(こぼんちゃん)が僕を誘いにきてくれた。
※当時ミジンコは金魚の餌としてたいていの金魚屋さんに売られていた。
一人っ子だったぼくが兄のように慕う小ぼんちゃんは5歳上。
僕が小1だったときは校区の端の自宅から片江小まで毎朝いっしょに歩いてくれた。
キャッチボールも教えてくれた。
とにかくやさしいお兄ちゃんだった。
小ぼんちゃんと一緒に行くことを、お父ちゃんお母ちゃんにちゃんと許しをもらった。
そして、僕はニコニコ顔で小ぼんちゃんの自転車の後ろの荷台にまたがった。その夜、小ぼんちゃんと何の話をしていたのかは覚えていない。
でも小ぼんちゃんの自転車の後ろで揺られながら走るのは、ぼくにとっていつも素敵な時間だった。
野田医院の前に差し掛かったとき、急に左足に強い痛みが走った。
何が起こったのかは理解できない。
小ぼんちゃんには痛みを訴えただが、自転車はしばらく止まってはくれなかった。
医院の隣にある写真館を通り過ぎて、モータープールの金網の横でようやく自転車は止められた。
左足の足首がパックリ口を開けていた。通学途中の井上モータープールにある熟れたザクロの実をそのとき思い出していた。車輪のスポークに足がはまりこんだのだった。
足の痛みより、「えらいことしてしもうた!」と顔色をなくしながら、僕を両手で抱っこし「ごめん。ごめん。」と言いながら懸命に家に走って急ぐ小ぼんちゃんの必死さの方がより鮮明に記憶にある。
事態を説明する小ぼんちゃんの横で、僕は「小ぼんちゃんは何も悪くない。」みたいなことをずっとお父ちゃんに訴えていた。
その夜、僕は泣かなかった。
自分が泣いてしまうことの意味を自分なりに考えていたのだろうか…
人一倍泣き虫だったはずのぼくだけれど…それだけ小ぼんちゃんが好きやったということか。
野崎外科病院までは今度はお父ちゃんが抱っこして走ってくれた。
暗い待合室で待ち、通された処置室?も暗かった。
7針縫った。
その後か先か、破傷風予防の注射を打たれた。これは飛び切り痛かった。
「もうほんの少し深かったらアキレス腱が切れていた。ギリギリのところや。10日間ほどは寝とかなあかん。」と先生が言うてはったと、お母ちゃんから聞いた。
小3の9月1日、 二学期の始業式のあった夜。
「もう自転車の二人乗りはやめとこう。」ぼくは教訓をひとつ得た。
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