森山's Honey Bucket 49
夏
近くにある墓地の大銀杏にセミが大きな声で鳴いていたとか
モータープールの金網に毎年たくさんのアサガオが咲いていたとか
秋
家の床下でコオロギが合唱していたとか
お月見の月がきれいだったとか
大銀杏が真っ黄色になっていたとか
冬
大雪で商店街のアーケードが落ちたとか
小学校で泥混じりの雪玉で雪合戦したとか
銭湯の帰り道お母ちゃんと大きなオリオン座を見たとか
小さかった頃の「季節」にまつわる記憶は、どれも印象的なものに限定される。
そもそも子ども時代の自分には「季節を感じ取るちゃんとしたアンテナ」が準備されていなかった。
暑いか寒いか、晴れが続くかか雨が続くか、日が長いか短いか、日常の関心はその辺りで十分だった。外で遊べるか、何時まで遊べるか、それで事足りた。
まして、季節の移ろいが身の回りの事物に素敵な変化をもたらしていることになど、これっぽちも気持ちを向けることはなかった。
でもそれは、何も僕だけに限ったことではなく、おそらく友人たちにとっても共通のことではなかったか。みんな毎日をいかに愉快に過ごすかにエネルギーの殆どを消費していたに違いない。「季節を味わう心」はかくして育たなかった。
それがどうだろう…
今朝は
涼やかな秋風に運ばれてきた公園の金木犀の甘い香りに「あれれっ」とときめいた。
不思議なことに、辺りには橙の小花は見あたらない。香りを頼りにあちこちキョロキョロしながら歩くと、そこにはまだ蕾の金木犀があった。
「蕾でも香るんだなあ…」
ちょっとした発見と喜びがあった。
自宅のハナミズキも、日一日と葉の色を変えていく。
しかしそれぞれの葉の色付きは決して一様ではない。
「一足お先に…」と枝から離れていくものもいる。
「秋なんだ…」
季節を感んじるしっかりしたアンテナが心にできたようだ。
「季節」に対する心の変化、
それは、たしかに歳を重ねたこととの関係もあるだろう…
しかし、変化を生んだもっとも大きな要因は
「星くずの村」実験学校に参加してきたことだと思う。
この17年間毎年毎月、僕は小豆島の自然のなかに身を置くチャンスを得た。
「星くずの村」には確かに「季節」が息づき、
「季節」から「季節」へのバトンタッチを肌に感ずることができる。
こんな環境に居させてもらえた幸運が、
鈍感だった僕の感覚を少しづつ変化させ、
「季節」を感じるアンテナを作らせてくれたのだろう。
人それぞれにアンテナを向ける方向は違い、拾える電波も異なる。
でも「感動を得るためのアンテナ」は、たとえ小さくても持っている方が幸せだ。
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