こんにちは。
林です。
今週は重い?(体重ではない)話を久しぶりに。
大阪のある中学にR先生とおっしゃる先生がいらっしゃいました。先生は、顧問のクラブで○年後に必ず全国大会でメダルを取る!と宣言して、現実化させた先生です。その指導の一環に、Aさんには毎日必ず「皿洗い」をすることを約束しました。Aさんは約束どおり風邪で高熱を出しても1日も休むことなく「皿洗い」をしたそうです。そして、みごと全国大会を制覇しました。それを聞きつけた他の校の先生が「皿洗い」を毎日休まずにすれば大会に勝てる!と生徒たちにやらせたそうです。けれども結果は…。どこに違いがあるのか?
「皿洗い」をすれば大会に勝てるわけではなく、別に何でもいいのです。なにか「ひとつのこと」を毎日することを身につければ、そのことは全てのことに通じるということです。大会で優勝するためにはいついつまでにこんなことができないといけないと計画をし、それを実行する。それを実行するするにあたり必ず毎日するんだという強い気持ちを持ち続けなければいけません。気持ちというようりは習慣化ですかね。そうすることで、大会に勝てるわけです。別に「皿洗い」でなくても「靴並べ」でもなんでもいいわけです。必ず毎日することを身につければ、そのことを何(大会で優勝・○○高校に合格・将来は○になる)にでも応用できるわけです。できない言い訳を考えるのではなくとにかく毎日する!できるかな?
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こんにちは。

WHです。(ワイド林でもない。若い林でもない。若江の林です。)
まずは、前回の解答から

顕微鏡クイズ1「さて何でしょう?」
答え「はさみ」

顕微鏡クイズ2「さて何でしょう?」
答え「精密ドライバーの持つところ」
魚のうろこではない。
顕微鏡をのぞくと、意外なものが見えることがある。自分の想像とは全く違ったものであったり、ある程度の予測は付いていたが少し違ったり、また教科書や参考書どおりではあるがやっぱり本物は違うなあと感じたり。じっくりと観察するといろんなものが見えてくる。
受験もそうだ。自分自身の意識の中をじっくり観察してみる。自分が本当にしたいことは何か?自分が好きなことは何か?つきつめて考えてみると意外な発見があったりする。自分では気が付かないうちに、ある教科を避けていたり、逆に自分では気が付かなかったが案外好きな教科があったり。教科に限らず、自分の行動をじっくり思い出してみると、そんなことに興味があったのかとか、好きだと思っていたのに意外とやっていないなあとか。
せっかくの機会です。顕微鏡にしろ、受験にしろ、トコトン(ひげ先生の単発銃ではない)やってみるといいです。やってみないとわかりません(そういえば八戸ノ里校に貼ったあったなあ)。
WHです。(ワイド林でもない。若い林でもない。若江の林です。)
まずは、前回の解答から
顕微鏡クイズ1「さて何でしょう?」
答え「はさみ」
顕微鏡クイズ2「さて何でしょう?」
答え「精密ドライバーの持つところ」
魚のうろこではない。
顕微鏡をのぞくと、意外なものが見えることがある。自分の想像とは全く違ったものであったり、ある程度の予測は付いていたが少し違ったり、また教科書や参考書どおりではあるがやっぱり本物は違うなあと感じたり。じっくりと観察するといろんなものが見えてくる。
受験もそうだ。自分自身の意識の中をじっくり観察してみる。自分が本当にしたいことは何か?自分が好きなことは何か?つきつめて考えてみると意外な発見があったりする。自分では気が付かないうちに、ある教科を避けていたり、逆に自分では気が付かなかったが案外好きな教科があったり。教科に限らず、自分の行動をじっくり思い出してみると、そんなことに興味があったのかとか、好きだと思っていたのに意外とやっていないなあとか。
せっかくの機会です。顕微鏡にしろ、受験にしろ、トコトン(ひげ先生の単発銃ではない)やってみるといいです。やってみないとわかりません(そういえば八戸ノ里校に貼ったあったなあ)。
こんにちは。

WHです。(ホワイト林ではない。ワイド林でもない。若江の林です。)
毎週、理科の授業では、実験を行なっている。
基本的には、教科書に載っている実験を中心に、時には「投げ込み教材」といって、全く教科書とは関係のない実験も行なう。
実験の結果だけを見れば、たった一つの事象を確認しただけになるが、実は、途中のプロセスに様々な体験や経験がある。そこに実験を行なう意義がある。もちろん、実験の結果が正しく出るに越したことはないが、仮に出なくても、なぜ正しい結果がでなかったかを考えるチャンスが生まれると考えれば、そのことにも意味がある。

顕微鏡クイズ1「さて何でしょう?」
それはちょうど、入試の様でもある。入試の結果だけでみれば、○○高校に合格!だけになるが、それにいたるまでに、様々なことがある。迷ったり、あきらめたり、けれどやっぱり、もう一度チャレンジしてみようと思ったり、もちろん、希望校に合格することに越したことはないが、仮にできなくても、途中のプロセスで様々なことを経験できたことに意義があるのであって、合格(または不合格)という結果には、意味はない。単なる結果である。ただ、いい結果はもちろん欲しいものではある。また、そのためにがんばるのではあるけれど…。
分かったような分からないような話になってしまった。何の話か?「百聞は一見にしかず、百見は実験にしかず」である。

顕微鏡クイズ2「さて何でしょう?」
答えはWEBで(笑)、来週。
WHです。(ホワイト林ではない。ワイド林でもない。若江の林です。)
毎週、理科の授業では、実験を行なっている。
基本的には、教科書に載っている実験を中心に、時には「投げ込み教材」といって、全く教科書とは関係のない実験も行なう。
実験の結果だけを見れば、たった一つの事象を確認しただけになるが、実は、途中のプロセスに様々な体験や経験がある。そこに実験を行なう意義がある。もちろん、実験の結果が正しく出るに越したことはないが、仮に出なくても、なぜ正しい結果がでなかったかを考えるチャンスが生まれると考えれば、そのことにも意味がある。
顕微鏡クイズ1「さて何でしょう?」
それはちょうど、入試の様でもある。入試の結果だけでみれば、○○高校に合格!だけになるが、それにいたるまでに、様々なことがある。迷ったり、あきらめたり、けれどやっぱり、もう一度チャレンジしてみようと思ったり、もちろん、希望校に合格することに越したことはないが、仮にできなくても、途中のプロセスで様々なことを経験できたことに意義があるのであって、合格(または不合格)という結果には、意味はない。単なる結果である。ただ、いい結果はもちろん欲しいものではある。また、そのためにがんばるのではあるけれど…。
分かったような分からないような話になってしまった。何の話か?「百聞は一見にしかず、百見は実験にしかず」である。
顕微鏡クイズ2「さて何でしょう?」
答えはWEBで(笑)、来週。
こんにちは。
NYWH (New Year Wakae Hayashi. Not Young Wide hayashi.ではない!)です(無理があるなあ)。

先日、昔の仲間と毎年行なっている新年会に行きました。
藤原学園を卒業すると、蒐英舎<しゅうえいしゃ>(英でた<ひいでた>ものを蒐めた<あつめた:切手蒐集とかに使う蒐の字は集めるという意味>学び舎<まなびや>)という同窓会のメンバーになります。
私が卒業したときには、この蒐英舎には同じ趣味を持つものが集まったクラブがありました。天文であったり、ラグビーであったり、そして、私はギターを始めていたこともあったので、蒐英バンドに入部しました。そのときの中学・高校・大学時代の仲間たちと当時はもちろん卒業してからも、そして、いつの間にかギターをあまり弾かなくなってからも、結婚して子どもができたら、子どももつれて集まり、その子どもたちも、いつの間にか、小学生・中学生・高校生になり、自分たちの年齢にはっとするようになっても、やはり、毎年集まっております。
数年や十数年ではなく、何十年という月日が経っていることに、自分自身でも愕然<がくぜん>としてしまうのですが、集まって話をすると、当時の話から、いつの話しだっけって話や、最近は、体の調子は…てな話から入るところは年齢を感じ始めています。
地元にずっと居続けて、気が置けない仲間とこうして会えるのは、本当に嬉しいなあと思いますし、それが自分の価値観の根本かなあとも思います。もちろん、教えるという立場になってからは、特に、自分の価値観を勧めたり、押し付けたりせず、本人たちの希望や、夢を、前面に押し出すように応援したいと思っていますが、自分のような選択(地元で生きる)もいいかなあと思います。もちろん田舎ではないので、スローライフというわけではないです(スローライフは田舎でしかできないものでもないです)が、気持ちはゆったりといたいものです。もちろん、現実は全然そんなこと言えない状況ですが、新しい政権にもちょっと期待したりしながら、他力本願だけでなく、すこしずつ、すこしずつ、前に進みたいなあと、新年にあたり、どさくさに紛れて抱負ぽいことなんか語ったりして。こんだけ字間や行間を詰めて書けば、あまり、見られることもなくとばされることを期待しながら。では、また来週!

NYWH (New Year Wakae Hayashi. Not Young Wide hayashi.ではない!)です(無理があるなあ)。
先日、昔の仲間と毎年行なっている新年会に行きました。
藤原学園を卒業すると、蒐英舎<しゅうえいしゃ>(英でた<ひいでた>ものを蒐めた<あつめた:切手蒐集とかに使う蒐の字は集めるという意味>学び舎<まなびや>)という同窓会のメンバーになります。
私が卒業したときには、この蒐英舎には同じ趣味を持つものが集まったクラブがありました。天文であったり、ラグビーであったり、そして、私はギターを始めていたこともあったので、蒐英バンドに入部しました。そのときの中学・高校・大学時代の仲間たちと当時はもちろん卒業してからも、そして、いつの間にかギターをあまり弾かなくなってからも、結婚して子どもができたら、子どももつれて集まり、その子どもたちも、いつの間にか、小学生・中学生・高校生になり、自分たちの年齢にはっとするようになっても、やはり、毎年集まっております。
数年や十数年ではなく、何十年という月日が経っていることに、自分自身でも愕然<がくぜん>としてしまうのですが、集まって話をすると、当時の話から、いつの話しだっけって話や、最近は、体の調子は…てな話から入るところは年齢を感じ始めています。
地元にずっと居続けて、気が置けない仲間とこうして会えるのは、本当に嬉しいなあと思いますし、それが自分の価値観の根本かなあとも思います。もちろん、教えるという立場になってからは、特に、自分の価値観を勧めたり、押し付けたりせず、本人たちの希望や、夢を、前面に押し出すように応援したいと思っていますが、自分のような選択(地元で生きる)もいいかなあと思います。もちろん田舎ではないので、スローライフというわけではないです(スローライフは田舎でしかできないものでもないです)が、気持ちはゆったりといたいものです。もちろん、現実は全然そんなこと言えない状況ですが、新しい政権にもちょっと期待したりしながら、他力本願だけでなく、すこしずつ、すこしずつ、前に進みたいなあと、新年にあたり、どさくさに紛れて抱負ぽいことなんか語ったりして。こんだけ字間や行間を詰めて書けば、あまり、見られることもなくとばされることを期待しながら。では、また来週!