森山’s Honey Bucket 79
GW最終日は、掃除に明け暮れた。
休みの最後に掃除しかしないというのももったいないかなあ…と思いつつ、
気が付けば完全な掃除デーになっていた。
自分の家も、隣接する両親の家も、気になるところをやっつけた。
貧乏性?が染みついているのか、
明日からの仕事のことを思うと、
「そろそろお休みモードを脱しなくては…」と心が働いてしまう。
かと言って、本格的な仕事のスタートが切れるわけではない。
そこで、「よし!掃除をしよう。」となったわけだ。
僕にとって掃除はいつも、何かを始める時の準備の「最初の第一歩」だ。
と、いうわけで…掃除もできたし、明日からお仕事頑張ります。
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森山’s Honey Bucket 78
実験学校の二日目の朝のフィッシングで…
一人の男の子が
「釣竿が壊れたから直してほしい…。」とやってきた。
職員として釣りの行事に何度も関わる立場なのに、
僕は全くといっていいほど釣りのことを知らない。
釣り針や浮きの付け方も、
どんなタイミングで竿を引き上げるのかも、
魚からうまく釣り針を外す方法も、知らないこと尽くめだ。
加えて、子どもたちが釣り上げた魚の名前も知らず、
「先生この魚何?」と尋ねられても、
「さ~て、何やろ?○○かなあ??」と、自信をもって答えられたためしがない。
子どもが上手く魚を釣り上げれば、一緒になって喜び騒ぐ。
だが、専門知識ゼロでなので、肝心なところで何一つ子どもたちの役に立てない。
これが釣りの時間のいつもの僕だった。
そんな役立たずの先生であることを知らなかったのだろう、
○○君は、釣り糸がリールに複雑にからんで、にっちもさっちも行かなくなった竿を、
僕に託すべく近づいいて来たのだ。
いつもの僕ならば、即、他の先生を紹介して
100%責任逃れをしてしまうのだが…。
釣りをしたい一心でわざわざ「マイ釣竿」を持参した彼の、
なんとも言えぬ困り顔が気の毒に思えてきて、
いつもの「責任逃れ術」を用いる気が失せてしまった。
ひとまず絡まった糸・リールとめっこしてから、試行錯誤を始めた。
そして、思い切って部品の一つをはずしてみることにした。
(もし竿を修復不可能な程に破壊してしまたらどうしよう…そんな思いが頭をよぎった。)
しかし意を決して部品を外してみたことで、解決の糸口がつかめた気がした。
次の部品もはずしてみた…慎重に、慎重に。
何とかなりそうだ…。
それなりの時間は要したが、やっと修繕が完成した。
とても嬉しかった。
「お~い○○くーん、直ったで!!』遠くにいた彼に向かって叫んだ。
彼は走り寄ってきて、何とも嬉しそうな笑顔で
「本当?ありがとう。」と言ってくれた。
人の役に立つってこんなことやなあ…
今まで自分が避けてきた領域で、人に喜んでもらえる役割を担えた…
とても充足感を得ることができた。
そんなやりとりを見ていたのかな?林先生(釣りの達人)が僕に声を掛けてくれた。
「これからは釣竿の故障修理は森山先生に任せよう!」と。
達人からも褒めてもらえたんだ!
人は褒められて伸びる(笑)。
「言うてや!何でもやりまっシェ。」
森山’s Honey Bucket 76
僕の住む東大阪小阪には「三角公園」という呼び名で地域の人たちに愛されている公園がある。
おおよそ6~7年前頃だったか、この公園、市の肝煎りでリニューアルされ、何から何までまっさらになった。
遊具や砂場が真新しくなるのは近隣住民としても嬉しいことだけれど、
今まで植わっていた木々の多くが、公園のNEWデザインにしたがって植え替えられたのは残念だった。
植樹されたばかりの木々は風が吹けば倒れたり折れたりするのでは…と心配するほど幹の細い幼木だったり、十分な木陰を造り出すことのできない若木だったりした。
それがどうだろう…。この春の「桜」の美しかったこと。
やっと木々も生長を遂げたということだろうか?公園に集う多くの人が、年齢に関わらず「桜の花」を見上げ、愛で、そしてカメラを向けていた。
そういえば今年は、夙川へも、大川縁へも、京都のお寺へも、お花見には出かけていなかった。
そのかわり?超地元「三角公園」と「長瀬川沿い」の桜の素敵さを再認識できた。
森山’s Honey Bucket 75
父はたいへん器用な人だ。
父はたいへん器用な人だ。
楽譜が読めるわけではないのに、ショパンの「ノクターン」や「別れの曲」や「軍隊ポロネーズ」だって弾きこなしたし、口笛もハーモニカもどんな演奏家より上手に思えた。
僕が片江小学校に通っていた頃の新深江の家(父曰く「アパッチ砦」)は、父自身が基礎工事から床・壁、トタン屋根に至るまで、ほとんど自分でこしらえた。(そんな我家には犬3匹、猫4匹、文鳥2羽、赤や青の金魚が泳ぎ、たくさんの鳩のすみかにもなっていた。だから動物たちと親子3人のワイワイ砦だった。)
家だって建てるくらいだから、戸棚を作ったり水屋を作ったりするのはお手の物、風呂場も作った。今から考えると法律的にはまずかったろうけれど、家屋内の電気配線も事故なく仕上げた。
そんな父は、僕の何倍も子どものことが好きで、いわゆるよその子でも、何かと面倒を見、可愛がり、時には厳しく叱りつけもしていた。おこると恐いけれどやさしいおっちゃんとして、僕の友だちからも近所の子どもたちからも好かれていたと思う。
昭和6年生まれの父は、その時代の方々の多くがそうであったように、戦前戦後を貧しく逞しく生き抜き、20歳代以降をとにかくがむしゃら働いてきた。そしてやはり情に厚かった。
立ち上げた森山商会は母と共に額に汗し、僕が小学校に上がる頃には、それなりの軌道に乗ったようだった。従業員さんやアルバイト学生さんも来てくれ、一人っ子の僕には工場が賑やかになったことが嬉しかった。
ところが十数年の汗と努力の結晶とも言える父母の財産が、やくざまがいの詐欺行為によって瞬く間に消えうせてしまった。
詐欺行為を働いたのは、なんと父母の結婚の仲人をした人物だった。
自分の全財産を、騙されるはずがなかった人物に、ねこそぎ持って行かれた父母の無念はいかばかりだったろう…。中学生になっていた僕もその詐欺師を心の底から憎み、最低の人間だと軽蔑した。
そんな不運があって、ある日からうちの住まいは、得意先の社長さんが自分の工場の片隅に提供してくれた小さな空間だけになった。同時に父の仕事はその工場の屋上に雨露をなんとかしのげる場所を得て再出発となった。
家財道具の箪笥2竿と僕の勉強机が狭い廊下に並べられた。
中3だったけれど寝る部屋は家族に一つだけだったから、必然的に親子3人は並んで寝ていた。
高校受験を控えた正月、藤原学園の冬合宿があった。
1月2日の早朝、勉強用具がギッシリつまった鞄をもって、「行ってきます。頑張ってくるわ。」と出発した。冬合宿では同室の仲間と励ましあって、徹夜学習も含め精一杯がんばった。
合宿で得た充実感を胸に、「ただいま!」と家に帰った僕に、父が「隆伸、上の工場に上がってこい。」と声をかけた。「うん。」言われるがままに足を階段に向けた。森山商会のにわか工場(父曰く「鳩小屋」)へ続く階段だ。 建物の外に張り出した雨ざらしの金属製の階段は靴音がよく響いた。
一瞬目を疑った。
そこには合宿出発前にはなかった、ベニヤ板で囲まれた部屋が立っていた。
夢中で扉を開けると、僕の勉強机、手作りの本棚、どこに預けていたのか懐かしいベッド、南側に開けた窓、そしてステレオセットがあった。紛れもない「僕の部屋」がそこには作られていた。
僕が合宿に参加 していた6日間に、お父ちゃんとお母ちゃんが作り上げてくれたのだ。
嬉しかった。涙が出るほどに…。
ただひとつの説明も付け加えられないのに、長い間心に残り続ける出来事がある。
僕は15歳の冬にそんな一つを得た。頑張ろう…そう誓えた。
この父と この母と 後どれ程の年月を一緒に過ごしていけるのかは分からない。
与えてもらったことの何百分の一すらも恩返しは叶っていない。
いつか僕があの世に行ったとき、またこの父母に迎えてもらい、
この世での孝行の不足を補えるチャンスがあればよいのに…と願う。
森山’s Honey Bucket 74
人はそれぞれに、自分のものさしを持っている。
好きな食べ物 嫌いな食べ物
素敵だと感じるデザイン 受け入れ難い形
身を乗り出してしまう会話 聞こえぬ振りをしたくなる話題
素直に感謝したい人の善意 煩わしく感じる行為
日常の些細なできごとから、人生の分岐をどう進むべきか…の決断にいたるまで
概ね人は自分のものさしを基準に、ものを思い、判断もしている。
自分のものさしを自分のことだけに当てはめ活用している場合はいい、
しかし問題は、自分用のものさしを頼りに、他人に働きかけをするときだ。
自分の考えは正しい。
これならば受け入れられる。
きっと相手のためになる。
喜んでくれるに違いない。
自分のものさしに照らすと
「よし、これで行こう!」と納得できていたことが、
実際には相手にまったく通じなかった、ということがある。
この仕事をしていると
そんな挫折感に似た気持ちを味わうことが少なくない。
そもそも
自分と他人の価値観は同じではない。
当然といえばそれまでだ…
けれど、自分は先生と呼んでもらえる職業に就いているのだから、
いろいろな場面、いろいろな人たちに、適切な対応ができるよう
「柔軟で素敵なものさし」を持っていたいものである。