森山’s Honey Bucket 83
上本町校の小学生は土曜日に理科の実験学習をしている。
僕と林先生が授業を担当、助手の先生や事務の先生が実験の盛り立て役だ。
先週の土曜日も2時から7時までの5時間は、
入れ替わり立ち代わりにやってくる各学年の子たちで、
お祭りのような大騒ぎ?だった。
お祭りのような…とは言ったけれど、
もちろん学ぶべきことはガッチリ、考えるべきところはしっかり、
学習した上での大興奮だ、と僕は思っている…
(でも子どもたちはどうかしら?)
僕担当の2年・4年・6年の実験メニューは
2年は「折り染め電気スタンド作り」
4年生の「顕微鏡実習」
6年生の「木の蒸し焼き実験(木炭作り)」だった。
6年生の「木の蒸し焼き実験(木炭作り)」だった。
まず、小2の折染め電気スタンド
和紙を屏風折り→三角折りし、染色液ダイロンを使って染色。
小2生たちには、紙をきちんと折るのもなかなかむずかしい。
各自が色の組み合わせや染め時間を決めるので、決して友だちと同じ仕上がりにならない。
それがいい。
それがいい。
子どもたちは自分のと友だちのとを見比べながら大喜び。
「先生!誰のが一番うまい?」作品に自信のある子は必ずそう言ってアピールしてくる。
「そうやなあ、誰の一番かなあ…」と言いつつ、
「○○君のはここがいい。」「△△君のはココが素敵だ。」
と出来る限りそれぞれの「素敵」を評価するよう努めている。
「僕のもいいけど、◎◎君のもいい。」
子どもたちがそんなふうに友だちの作品を認めるようになると、しめしめ…と微笑んでしまう。
子どもたちがそんなふうに友だちの作品を認めるようになると、しめしめ…と微笑んでしまう。
次に電気配線。導線同士をきちんと繋ぐことがとても大切。
正しい結線方法をしっかり真似するように指示する。
真似することも大切な学習方法だ。
「僕の豆電球が点かない…」と涙目になっている子に、落ち着いて原因を探らせると、豆電球がソケットにちゃんとはまっていないだけ、ということがよくある。
そんな子たちも経験を積むうち、直列・並列の特徴だって頭に入れ、やがては複雑な回路図も読めるようになるのだ。
ものをつくる楽しさは、その過程において、「完成像=成功像」を頭に描き、
そこに向かって工夫を重ねるおもしろさ、だと説明できる。
工作をしていて、どこかしら「にやけ顔」の子は、
これから辿りつくだろう作品の完成形を想像して、微笑んでいるのに違いない。
これから辿りつくだろう作品の完成形を想像して、微笑んでいるのに違いない。
かくして悪戦苦闘の末、下のような作品ができあがった。
子どもたちの満足げな?笑顔がいいでしょ?
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森山’s Honey Bucket 82
今やあまりにも有名になった「まぼろしのCM] ですが、
ひょっとしてひょっとして、まだご覧になっていない方がおられたならば、
是非ともご覧ください。
www.youtube.com/watch?v=C_CDLBTJD4M
www.youtube.com/watch?v=UNbJzCFgjnU
いずれも初回放映直後に震災があり、お蔵入りになったものだそうです。
森山’s Honey Bucket 81
東北で被害に遭われた方々を支援するため、大勢のボランティアが身を粉にして活動されている。そんな報に触れるたび「我が国民」は「やさしさ」「思いやり」を忘れてはいない!と感銘を覚える。
が一方で、日常当たり前の生活の中に、ふと、
この社会は「他人を思いやること」を忘れたのではないか…と感じることがある。
最近、どこかの国を模した巨大ショッピングモールがあちこちに出現している。
先日も大阪駅に巨大なショッピング施設がオープンした。
「1日で50万人もが来店したそうだ。」とキャスターが明るい調子で報道していた。
「自分の稼いだお金で欲しい物の購入する。」
「品揃えが豊富で、選択の自由が広がる大型店に出掛ける。」
いずれも個人の自由な経済活動だ。
大きな資本があれば大量の買い付けを行い、仕入れ単価を下げることができる。
結果、同じ価値の商品を安く販売でき、消費者に歓迎される。
これも企業の自由な経済活動だ。
今の世の中のあちらこちらに、「大勢に支持される」=「価値がある」という等式がまかり通っている。
大勢の味方を獲得するために、「あなたたちを思いやる気持ちがあります」と、うまくアピールしている者が業績を伸ばし、したたかに生き抜いていると言い替えてもよい。
しかしこの勝者の方程式から漏れたところに、目を凝らさないと見えないものがある。
それは、「力のあるもの」によって無残に潰され、押し流され、藻屑とされた「小さなものたち」のことだ。
以前の日本社会は「小さき存在」に対してもっと寛容で、「思いやり」が溢れていた。
社会を構成する一人ひとりもまた同様であった。
また昔の「力あるもの」は、自分(自分たち)の起こす「うねり」が、弱小の者たちに及ぼす影響について、もっと「仁」や「礼」を持って臨んでいた気がする…
巨大なブルドーザーを以て容赦なく「か弱き者」をなぎ倒す「現代流の力」を、
僕は好きにはなれない。
善意を身にまとった大勢の一員となることで、いつの間にか、
「小さい者たち」に対する「思いやり」を持てなくなった我々自身も、
好きとは言えない。
今の社会を牛耳る「利益至上型」の有様をいくらか脱却して、
「他人への思いやり」に満ち、
「足らないところを自然に分け合える」
そんな世の中に近づけることを願う。
森山’s Honey Bucket 80
「わからないこと」を、「わからない。」と正直にいうことは簡単なことではない。
まして、「どこがわからない」とか、
「ここまではわかったけれど、ここからわからなくなった」とか、
自分の置かれた状況を分析して人に伝えるのは至難の業だ。
知らない街で道に迷った人が、
ここまで通ってきた道を他人に説明したり、
回れ右して通ってきた道を逆にスタート位置まで戻ったり、
することができるだろうか?
目的地へ急ぐ人が迷いなく歩いているのを見ると、
「あの…僕、どう行けばいいかわからないんです。」とは言い出せない。
それが立ち往生した者の気持ちなのではないか?
テストを目前にして途方にくれる子たちのほとんどは、
どの辺で道に迷ったのかわからなくなった旅人のようだ。
それぞれに目的地へと向かおうとする責任感は持っている。
ときに、「応援してくれている家族のためにも、頑張らなくては。」と健気ですらある。
でも思うように道を探せない。目の前の問題に手が付けられないのだ。
そんな彼らに、僕たちが役立とうとすれば、
彼らの勇気を後押しして、「これ、わからんねん。」と尋ねやすい環境をつくること。
そして、一つの「質問」にじっくり付き合う姿勢を持つこと。
「僕の投げかけた質問に、目の前の先生が真剣に応えようとしてくれている…。」
そんなことを確かめながら、子どもたちは「質問してよかった。」と思ってくれるのではないだろうか…。
「わかった。」という安堵がほっぺたに表れたとき、その顔は確かに素敵になる。
それを間近から見られるのが「勉強会」のよいところだ。
森山’s Honey Bucket 79
「母の日」のを前にしたある日のニュースから。
津波で塩害を被った園芸農家。
駄目だとあきらめていた畑に、たくさんのカーネーションが花をつけた。
泥を被ったカーネーションは正規の売り物にはならない。
しかし健気に花芽を膨らませたカーネーションの「生命力」に心打たれた農家の方は、
一株一株を丁寧に水洗いして、いくつもの小さな花束にした。
一株一株を丁寧に水洗いして、いくつもの小さな花束にした。
そしていつもの10分の1程の価格で庭先の台に並べてみた。。
それを知った避難所の人たちがたくさんやって来て、その花束は瞬く間になくなった。
色鮮やかなカーネーションを手に、笑顔をほころばせる人もいれば、
「亡くなった母が好きだった…」と涙を浮かべる人もいる。
ニュースに映し出される人たちの表情は様々だったけれど、
その花たちに向けられる眼差しは皆、とても慈しみ深いものに感じられた。
人は感謝の気持ちを「花」に託して伝えることがある。
一年のうちでも一際「花」が美しい季節を迎えた。
神様へ、
今、この国の大地に咲く花々を、
そちらに召されたそれぞれの方へ、