森山's Honey Bucket 48
根が単純に出来ている僕は、すぐ人の影響を受けます。
先日のブログで林先生やあっ君が読書する素敵さを語っておられたのを拝見すると…
「そうだ、やっぱり秋は読書だ!」と今4冊目。
CY先生のマラソンのトレーニングのお話を読ませてもらうと…
「よしっ!僕も秋風を頭に受けながら(アッ間違えた背中に受けながら)走ってみるか。」とあこがれ、そのくせ
学園長の「森山先生もし走ったら松村(芸能人・にわかランナー?)みたいに倒れるよ!」の言葉に至極納得し、即、ランニング断念。
サップ先生のお弁当作りのお話と美味しそうな玉子焼きの写真を拝見するや否や嫁さんに
「明日のお弁当のおかずに出汁巻き玉子よろしく!ただし甘くないやつ。」
学園長の日曜勉強会のブログには…
「おっしゃるとおりだ!!」と痛く感動。「よしっ!上本町の勉強会も頑張るべ!!」
ってな具合です。
よしっとばかり何か始めても、どれも長続きしませんが…
でも、単純であるおかげで
いっぱい楽しめたり
いっぱい笑えたり
感動できたり
いろいろお得です。
単純万歳!!
※バンジージャンプだけはいくら勧められてもやりません。
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森山's Honey Bucket 47
小3の頃「日に9時間テレビを見ています。」とアンケート用紙に書いて、担任の先生から問題視されたこともあった僕だが、歳とともに殆どテレビを見なくなった。
そんな僕がゴールデンウィーク以降、毎日録画予約してまで欠かさず見ている番組がある。NHK朝の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』だ。
『ゲゲゲの鬼太郎』の作者、水木しげる氏とその奥さん、そして夫婦を取り巻く人たちが紡ぐ家族愛・人間愛をテーマにしたドラマだ。
小3の頃「日に9時間テレビを見ています。」とアンケート用紙に書いて、担任の先生から問題視されたこともあった僕だが、歳とともに殆どテレビを見なくなった。
そんな僕がゴールデンウィーク以降、毎日録画予約してまで欠かさず見ている番組がある。NHK朝の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』だ。
『ゲゲゲの鬼太郎』の作者、水木しげる氏とその奥さん、そして夫婦を取り巻く人たちが紡ぐ家族愛・人間愛をテーマにしたドラマだ。
話の展開がおもしろい。
自分が小さい頃を生きた昭和時代の香りがして懐かしくかつ落ち着ける。
方言の生み出すなんともいえぬ素朴さもいい。
主役の布美枝が夫を信じ支える姿に理想の女性像を見る気がする。
各役者さんの持ち味が素敵だ。などなど、
とにかくはまってしまった…
最終週を前にした先週のある回、水木しげるが、仕事(学校の先生)に行き詰って悩んでいる長女藍子にやさしく語りかけた言葉がとても素敵に思えた。
実にいい言葉で、説得力ある内容だった。
それは…
「 意思の力で成功しないときには、好機の到来を待つしかない。」
という詩人ゲーテの言葉を引用しながら、
「 好きなことをして生きるのはええことだ。
けど、好きと楽することとはちょっこし違う。
苦しいことや嫌なことがあっても
それでもやらずにはおられんのが、ほんとうに好きなことだ。
だけん、迷ったり悩んだり落ち込んだり、苦しい思いをしてみんことには、
好きなことが何なのか、ほんとうはわからんのだよ。
人は神さんではないけん、世の中を思い通りには動かせん。
やるだけやっても うまくいかないときには
ほれ、『好機の到来を待つしかない。』
人間にできるのは それだけだ…。
闘わずして土俵を下りるのが、いちばんつまらんぞ…。」
と。
まだ少しは続くだろう自分の人生。
今まで信じてきた「好きなこと」を、
やっぱり「ほんとうに好きだった」と締めくくれるよう、生きていきたい。
森山’s Honey Bucket 46
高校時代の2年間と少し、油絵の具にまみれることになった。
夏の合宿では、早朝から日暮れまでひたすらキャンパスに向った。
志摩半島の突端にある「波切」という、大きな灯台のある漁村だ。
早い朝食の後、キャンバスと油絵の具や絵筆の入ったカバンを抱え漁村の階段や坂道を歩きまわる。
そして気に入った風景に出会うと、構図を決定し早速描き始めるのだ。
そして気に入った風景に出会うと、構図を決定し早速描き始めるのだ。
合宿所の民宿「もへじ屋」にOBの方がトラックで運んでくれているキャンバスは、合宿前に美術部員総出でこしらえたもの。
新品のキャンパス(型枠の桟にベニヤ板を打ちつけ白いペンキを塗布したもの)も一応作る。
しかし大部分は経費と労働力を削減するため、先輩が過去に描いた作品を上から白いペンキで塗りつぶして自分たちのキャンパスにする。
リサイクルと言えば響きはいいが、紛れもなく先輩の作品を無きものにする荒業だ。
しかしこのことは、当時すでに美術部の伝統であったから仕方がない。
新品のキャンパス(型枠の桟にベニヤ板を打ちつけ白いペンキを塗布したもの)も一応作る。
しかし大部分は経費と労働力を削減するため、先輩が過去に描いた作品を上から白いペンキで塗りつぶして自分たちのキャンパスにする。
リサイクルと言えば響きはいいが、紛れもなく先輩の作品を無きものにする荒業だ。
しかしこのことは、当時すでに美術部の伝統であったから仕方がない。
合宿中利用するベニヤ板製キャンパスは、小さいものでも30号、大きなものは60号
(60号は大体130cm×90cm位)運ぶのもなかなか大変だった。
(60号は大体130cm×90cm位)運ぶのもなかなか大変だった。
朝のうちに1作、昼ご飯前から2作目にかかり、3時頃には3作目に突入。
朝一から日暮れぎりぎりまで、階段や地べたにしゃがみこんだり、民家の庭先の石垣に腰を下ろさせてもらったりしてひたすら描いた。
(もちろんイーゼルなんて洒落たものは使用しない。)板キャンも地べたに置くか石垣に立て掛けるのだ。
(もちろんイーゼルなんて洒落たものは使用しない。)板キャンも地べたに置くか石垣に立て掛けるのだ。
ほっと一息のかき氷の美味しさも懐かしい。充実の真夏の3泊4日だった。
ともに油絵の具の香りの中で過ごした高校時代。
全日本学生絵画コンクールでの学校賞(最高賞)を目指し、夜遅くまで絵筆を動かし励ましあった。
競いもしたし恋もした。
想えば、すべてに夢中だった。
今メンバーのほとんどが美術とは無関係な仕事に従いている。それは少しも不思議だとは思わない。
でももういい歳になった我々が、年2回は顔を合わせ、食べ・飲み・歌い・騒ぎ、心満ち足りた時間を過ごしている。それは不思議だ。
今年もあと少しでその至福のときが訪れる。
今年もあと少しでその至福のときが訪れる。
これから高校への扉を開く人たちよ、どうか素敵な3年間であれ!
一生物の宝である友人と出会える3年間となるように願う。
森山's Honey Bucket 45
我が家に「仮免許練習中」なるプレートが2枚ある。
娘が自動車教習所で仮免の試験に合格したとき、手引きを見ながら自作したものだ。(我ながらよくできている。)
娘は運転免許証を得てほんの1年程の初心者だが、なかなか上手な安全ドライバーだ。
最近は気軽に同乗できるようになった。
「どこか近くへドライブでも行って来たら?」と母親が自分の自動車の鍵を渡そうとする。
「行き先など決めずふらっと行くのがいい。」などと僕も言う。
しかし返事はいつも
「やめとく。行くのはいいが絶対帰って来れない!帰り道がわからん…」
なるほど…兄と違い方向感覚はたしかに怪しい。地図も読める方とは思えない。
妙に納得。
初心者といえば自分のことも思い出される。
ドライバーとしてのそれではない。
授業をしっかり務めるということは今もなお難しいことだが、
この仕事に就いて10年頃まではさらに怪しかった。
「授業が勝負。」
「授業の成否はどれだけ準備をするかにかかっている。」
「『今日、このことだけは必ずすべての子どもたち理解させるぞ!』そんな信念を持って授業に臨むべきだ。」
「しっかり教材研究することこそが価値ある授業を創造する唯一の方法だ。」
これらはすべてヒゲ先生の教えである。
当時1クラス30名を数えることもあった教室で、
皆にこちらを向いてもらう授業をすること。
ひとつでも多くのうなずきが得られる授業をすること。
子どもたちには生き生きした時間を過ごさせ、かつそこにしっかりと学びを共存させること。
今も難題 当時はまさしく大難題
どんなふうに説明すれば理解してもらえるか?
子どもたちがイメージしやすい例を取り上げ、いくつものストーリーにした。
子どもたちがイメージしやすい例を取り上げ、いくつものストーリーにした。
先輩の先生に教わりながら授業計画を練り、来る日も来る日もプリント教材を手作りした。
夜を徹して予備実験したり、実験装置を作ったりもした。
時には生徒のいない教室の黒板を背に、身振り手振りの練習授業もした。
「わかったで!」と言ってもらうために。
台本を書いて授業に臨んだことも何回もあった。
授業がここまで進んだら、こんな話題を出してみる。
「そういえば…」と言いつつ、おもむろに脱線話を展開する。
この話、子どもたちはきっと喜んで聞いてくれるはずだ。よい気分転換になる!
いや、ほんとうに聞いてくれるかな??
もしかして全く反応してくれず、授業の雰囲気が取り返しのつかぬ程悪くなったらどうしよう…
不謹慎に聞こえるかも知れないが、こんなことも…。
子どもたちの予期せぬ発言に臨機応変に対応する練習として、
結婚間もない嫁を相手に「ボケとツッコミ」の掛け合い練習を毎晩続けた時期もあった。
子どもたちと一体になる授業を心に描いた。
しかし何度も何度も叩きのめされた。
その都度なんとか気を取り直してやってきた。
「この先生の話はどんなことであれしっかり聞こう。」
と子どもたちに思ってもらうことに、初心者マークを胸に貼った当時の自分は、
今よりも貪欲であった気がする。
そろそろ年齢も大台。
今さら心身ともフレッシュでキラキラした自分にカムバックするのは絶望的だ。
しかし、子どもを引きつけることに情熱を傾け、日々工夫をこらしていた「仮免許」時代の自分を時折思い出したい。
森山’s Honey Bucket 44
9月1日「防災の日」は、大正時代に首都圏を襲った大地震「関東大震災」の惨事からの教訓を再認識する日として設定されたらしい。
が、僕にはもうひとつ別の教訓を残した「防災の日」でもある。
「隆ちゃん、ミジンコ※買いにいくで!」
真向かいに住む小ぼんちゃん(こぼんちゃん)が僕を誘いにきてくれた。
※当時ミジンコは金魚の餌としてたいていの金魚屋さんに売られていた。
一人っ子だったぼくが兄のように慕う小ぼんちゃんは5歳上。
僕が小1だったときは校区の端の自宅から片江小まで毎朝いっしょに歩いてくれた。
キャッチボールも教えてくれた。
とにかくやさしいお兄ちゃんだった。
小ぼんちゃんと一緒に行くことを、お父ちゃんお母ちゃんにちゃんと許しをもらった。
そして、僕はニコニコ顔で小ぼんちゃんの自転車の後ろの荷台にまたがった。その夜、小ぼんちゃんと何の話をしていたのかは覚えていない。
でも小ぼんちゃんの自転車の後ろで揺られながら走るのは、ぼくにとっていつも素敵な時間だった。
野田医院の前に差し掛かったとき、急に左足に強い痛みが走った。
何が起こったのかは理解できない。
小ぼんちゃんには痛みを訴えただが、自転車はしばらく止まってはくれなかった。
医院の隣にある写真館を通り過ぎて、モータープールの金網の横でようやく自転車は止められた。
左足の足首がパックリ口を開けていた。通学途中の井上モータープールにある熟れたザクロの実をそのとき思い出していた。車輪のスポークに足がはまりこんだのだった。
足の痛みより、「えらいことしてしもうた!」と顔色をなくしながら、僕を両手で抱っこし「ごめん。ごめん。」と言いながら懸命に家に走って急ぐ小ぼんちゃんの必死さの方がより鮮明に記憶にある。
事態を説明する小ぼんちゃんの横で、僕は「小ぼんちゃんは何も悪くない。」みたいなことをずっとお父ちゃんに訴えていた。
その夜、僕は泣かなかった。
自分が泣いてしまうことの意味を自分なりに考えていたのだろうか…
人一倍泣き虫だったはずのぼくだけれど…それだけ小ぼんちゃんが好きやったということか。
野崎外科病院までは今度はお父ちゃんが抱っこして走ってくれた。
暗い待合室で待ち、通された処置室?も暗かった。
7針縫った。
その後か先か、破傷風予防の注射を打たれた。これは飛び切り痛かった。
「もうほんの少し深かったらアキレス腱が切れていた。ギリギリのところや。10日間ほどは寝とかなあかん。」と先生が言うてはったと、お母ちゃんから聞いた。
小3の9月1日、 二学期の始業式のあった夜。
「もう自転車の二人乗りはやめとこう。」ぼくは教訓をひとつ得た。